2016年11月08日

映画「人情噺の福団治」を観て。経験と創造についてちょっと考える

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福岡はKBCシネマで、映画「人情噺の福団治」を観てきました。
7日間しか上映されずしかも毎日モーニングショーの一回だけ。
単館系の映画って観るのが大変(笑)。

手元のフライヤーによると(余談ですが最近チラシっていう言葉が復活してきてるように思います。その前はビラだったんだなーって、古い本を読んで思いました。どの言葉を使うのが好きかなあ。)
「全国に先駆け九州からの先行ロードショー」であるそうです。
ほほお。
先行かあ。

映画のサイトはこちら


内容としては、件のフライヤーを見て自分が想像していた方向とは少し違っていました。
「芸」に関する姿勢や考えが濃く出ているものかと思っていたのですが
それよりは師匠の「社会的」な側面や家族との関係、「親として」の貌を映すことに時間が多く使われていました。
詳しいことはここでは書くべきではないと思うのですが(なにせ「先行」して観てますから!)、それらを思い返しながらあらためてチラシを見ると、なるほど確かに書いてあったなあと思います。
「人情噺の福団治」とは、そういう意味の方で、まさにのタイトルだったんだなあ。

芸のことだけ考えてはいられない。
むしろその周辺のことを背負い、こなし、捌いていく。
「芸のことだけ」考えて生きていく生き方の厳しさと
そうはできない、しない生き方の重さ。

どう考えるものなのだろう。
と、思いました。

ひとつのことだけのために己を捧げ、ある意味周囲とは縁を断つ姿勢。
足枷とさえなり得ることを承知で「それ以外」をなお引き受け、身体にぶらさげながら進む姿勢。

その二つについてどう考えるか。

改めて自分に問うたわけなのでした。


さてちょっと話は変わりますが、扱われたテーマのひとつに「親子」というものがありまして
親子の人情噺を語るにあたり、やはり自分が親になったあととその前とでは違うものになると語られる(語るのは福団治師匠ではありませんが)箇所があり
そうだよなともとても思うわけです。
実体験、もしくは自分の心深くに一度感じた「何か」の裏付けのない語りや演技には、人に伝えられるものが宿ることはないだろう。
その意味で役者(突然役者の話になりますが)はその生き方が常に問われているのではないか。

と思うのですが

いつかどこかなにかで読んだのですが
「自分が実際経験したことしか書けないようでは物書きとは言えない」
といった趣旨の文章を読んで共感したことがありまして

自分の個人的な感情、体験、実感「だけに」根ざした表現というのもどんなものかとやはり考えるわけなのです。

「想像」や「創造」は、「表出する」だけのものではないでしょう。

「実感」の裏付けがないものは空虚。
しかし「実感」だけではものは作れない。

考えて考えて考えて、未知のものでも「創造」する。
そのためには考える主体ができるだけ深く広く重く鋭くなくては豊かなものは出てこない。

そういうことだと思います。
なので例えば「子供のいない役者に親の役は出来ない」なんて簡単に言っちゃう人なんかには大いに反発するのでした。

(あ、この映画では「子供のいない役者には」的な語られ方はしていません。
実感と「芸」のバランスについて言及されています。)


さて最近自分が動画撮影に関心を持っているせいかとも思いますが
写し手についても、漠然とながら思いを馳せつつ観ていました。

風景とか。
色の出し入れのバランスとか。
そこここに「写し手」の気持ちが感じられて

それをできるだけ受け取りたい、という気持ちになって観てました。


最後に妙な感想ですが
ところどころに人が大勢いるシーンがあって(お祭りとか)
大勢の人、の、思いとか願いとか気持ちとか息遣い、生きている、ということ、をそこに見た気がして
圧倒されるような胸に迫るようなそんな感覚になりました。

みんな、願って、生きている。
たくさんの人が。

こんなことを考え始めたのはごく最近のことです。






タグ:映画
posted by ゆう at 15:03| Comment(0) | 映画
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