2017年09月03日

「映画」の撮影、開始します。

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いろいろと企画はたまっているのですが、なかなか実行にこぎつけられずにいたここしばらく。ようやく動き出しますよ!
まずは動画の撮影から。この秋は、二本、撮らせていただこうと思っています。

本来「情報解禁(つまり一定期間の情報秘匿)」って必要なのかなあ・・・と疑問視している東雲ではありますが、その疑問はオリジナル作品を扱う時に限るのでは、と思い至りました。やっぱり言えない時は言えないわ。

ちょっと胸がちくちくする経験を経ていることもあり、すみません、この記事では、わかるようなわからないような、中途半端な予告の仕方をさせていただきます。
勿体つけてるみたいで少しいやなのですが、何卒ご容赦くださいませ。
さて。


某近代文学作品Aの映像化(抜粋版)


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今回企画しているのはどちらも近代日本文学有名作家の短編小説の映像化です。こちら「A」の方は、何年も前から舞台化したいしたいと思っていた作品です。

映像作品を本当に作ろうなんて(やったらいいだろうなーくらいには思っていましたが)考えだしたのはここ一年くらい、そこに来て、この作品についても、舞台化から映像化へ考え方がシフトしました。と言っても舞台化のほうを放棄したわけではなく、舞台化もいずれやると思います。

当然ながら舞台でやるのと映像にするのとは見ていただき方も全然異なるものにしたくなるわけで、生の舞台で役者さんの迫力を味わいながら是非見ていただきたい画はもちろんすでにたくさんあるのですけれど、今回は一旦それも棚上げして、映像ならではの雰囲気づくりに努めようと思います。

と言って基本は、淡々と、シンプルに役者さんを映すものになると思うのですが。
すてきな役者さんたちに、もうご出演いただけることが決まっております。深みと迫力のある演技はすでに保証されたようなもの、今からすでにドキドキしています。

本来は全編通したいのですが、今回は「パイロット版」ということで短く・・・と思っていたら案外長くなりひとつの作品と呼べそうになってきましたので、「初版(本?)」扱いで正式な作品と致します。もしかすると今後、抜粋一切なしの「新版」が出来るかもしれない。どうだろうか。


某近代文学作品Bの映像化


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そしてもうひとつ企画しているのも近代日本文学有名作家の短編の映像化です。「A」とは別の作家のものです。

この作品の一場面が、中学生くらいの頃から離れなくて離れなくて(でも実は「A」もそうなんです)、いつかど
うにかしてやりたいと思っていたところ、今回映像化できそうだと思いつきました。

こちらに関しては抜粋も抜粋、ほとんどの場面をさらっと流し、一番扱いたいところだけをただ際立たせるという作り方をします。舞台化については考えていなかったのですが、どうだろうか。

この文学作品のテーマ(と東雲が考えるところのもの)は、東雲自身のテーマでもありますので、印象的なものにしたい。こちらも、役者さんが決まっております。「あの」メッセージをじゅうぶん伝えきる、表情と佇まいがいただけることと大いに期待しています♪


とはいうものの、実は“初めて”です!


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なんだか気安く撮影撮影と書いていますが、実は動画作品を作るのなんて、うまれて初めてです。本当言うと、右も左もわかりません。

要するにど素人です。

今回は手探りしたり、すったもんだしたり(多分)、どうしたものかと途方に暮れたりする場面があるだろうな・・・と覚悟はしています。が、ご助力も賜われることになっておりまして、有り難いやら心強いやらの限りです。でもきっと、必ず、すてきな作品をご覧にいれますので、どうかお楽しみになさって下さいませ。

宜しくお願い致します。


この際なので、大風呂敷を広げますが、数年の間に、「映画」と呼べるものを撮影しようと思っています。

今回作るのは「動画」という認識ですが、「動画」と「映画」はどう違うのか、と問われ、今の段階では、長さ、なのかなあ、と思っていますが・・・でも、それは実はちょっと違うと、東雲自身も考えています。「映像作品」と「動画」の違いの問題も出てきそうでして、この辺はあくまでイメージかなあ・・・と書いているうちに、なんだか気持ちが変わってきました。

今回作るものも「映画」。で、よくないか。

というわけで、ここに来て当記事のタイトルを変更しました。どちらを名乗るかについて、今後、結論を出していこうと思います。うーん。
タグ:動画 映画 映像
posted by ゆう at 18:50| Comment(0) | 映画

2016年11月08日

映画「人情噺の福団治」を観て。経験と創造についてちょっと考える

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福岡はKBCシネマで、映画「人情噺の福団治」を観てきました。
7日間しか上映されずしかも毎日モーニングショーの一回だけ。
単館系の映画って観るのが大変(笑)。

手元のフライヤーによると(余談ですが最近チラシっていう言葉が復活してきてるように思います。その前はビラだったんだなーって、古い本を読んで思いました。どの言葉を使うのが好きかなあ。)
「全国に先駆け九州からの先行ロードショー」であるそうです。
ほほお。
先行かあ。

映画のサイトはこちら


内容としては、件のフライヤーを見て自分が想像していた方向とは少し違っていました。
「芸」に関する姿勢や考えが濃く出ているものかと思っていたのですが
それよりは師匠の「社会的」な側面や家族との関係、「親として」の貌を映すことに時間が多く使われていました。
詳しいことはここでは書くべきではないと思うのですが(なにせ「先行」して観てますから!)、それらを思い返しながらあらためてチラシを見ると、なるほど確かに書いてあったなあと思います。
「人情噺の福団治」とは、そういう意味の方で、まさにのタイトルだったんだなあ。

芸のことだけ考えてはいられない。
むしろその周辺のことを背負い、こなし、捌いていく。
「芸のことだけ」考えて生きていく生き方の厳しさと
そうはできない、しない生き方の重さ。

どう考えるものなのだろう。
と、思いました。

ひとつのことだけのために己を捧げ、ある意味周囲とは縁を断つ姿勢。
足枷とさえなり得ることを承知で「それ以外」をなお引き受け、身体にぶらさげながら進む姿勢。

その二つについてどう考えるか。

改めて自分に問うたわけなのでした。


さてちょっと話は変わりますが、扱われたテーマのひとつに「親子」というものがありまして
親子の人情噺を語るにあたり、やはり自分が親になったあととその前とでは違うものになると語られる(語るのは福団治師匠ではありませんが)箇所があり
そうだよなともとても思うわけです。
実体験、もしくは自分の心深くに一度感じた「何か」の裏付けのない語りや演技には、人に伝えられるものが宿ることはないだろう。
その意味で役者(突然役者の話になりますが)はその生き方が常に問われているのではないか。

と思うのですが

いつかどこかなにかで読んだのですが
「自分が実際経験したことしか書けないようでは物書きとは言えない」
といった趣旨の文章を読んで共感したことがありまして

自分の個人的な感情、体験、実感「だけに」根ざした表現というのもどんなものかとやはり考えるわけなのです。

「想像」や「創造」は、「表出する」だけのものではないでしょう。

「実感」の裏付けがないものは空虚。
しかし「実感」だけではものは作れない。

考えて考えて考えて、未知のものでも「創造」する。
そのためには考える主体ができるだけ深く広く重く鋭くなくては豊かなものは出てこない。

そういうことだと思います。
なので例えば「子供のいない役者に親の役は出来ない」なんて簡単に言っちゃう人なんかには大いに反発するのでした。

(あ、この映画では「子供のいない役者には」的な語られ方はしていません。
実感と「芸」のバランスについて言及されています。)


さて最近自分が動画撮影に関心を持っているせいかとも思いますが
写し手についても、漠然とながら思いを馳せつつ観ていました。

風景とか。
色の出し入れのバランスとか。
そこここに「写し手」の気持ちが感じられて

それをできるだけ受け取りたい、という気持ちになって観てました。


最後に妙な感想ですが
ところどころに人が大勢いるシーンがあって(お祭りとか)
大勢の人、の、思いとか願いとか気持ちとか息遣い、生きている、ということ、をそこに見た気がして
圧倒されるような胸に迫るようなそんな感覚になりました。

みんな、願って、生きている。
たくさんの人が。

こんなことを考え始めたのはごく最近のことです。






タグ:映画
posted by ゆう at 15:03| Comment(0) | 映画

2016年10月10日

「スートラ」を観てきました

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福岡市在住の東雲ですが、先日は北九州は小倉に参り、ダンスパフォーマンス公演「スートラ」を観て参りました。
少林寺の僧侶たちによる、アクロバティックなダンスパフォーマンス。
チラシ観た途端予約を決意した、楽しみな楽しみな公演。
公演当日に、上演時間が70分だったと気づいて驚愕した公演(短い・・・)。
そして実に甘美な感覚にすっかり酔った公演でした。


公演の記事へのリンクはこちら


でも最初にいつもの愚痴書いちゃう。
だからどうして素敵な公演は北九州ばっかりなのよ!
北九州芸術劇場があるからなのよね。
いつの間に福岡と逆転したのよ。
福岡には劇場少ないからね!
メルパルクなくなって久しいしね。
会場とか設備とか施設とか・・・
福岡市、文化施策ほとんどやる気がないしね!
演劇関係なにかと北九州はじめ別の地域に水あけられてるしね!

えっと、それについてはまた他の日に書こうと思います。
はい。

さて舞台。
観ながらの印象は
「これは生身によるビデオアートだ・・・」
というものでした。
(大好きな)インスタレーションを鑑賞している時にとても感覚が近かったと思います。
よって大変嬉しかったのです。

ダンスはパフォーミング・アーツだから「アート」なのは当然だし
普段ほとんどダンスの公演に行かない東雲ですが昨今のダンスパフォーマンスにはアート的側面の強いものも多いという印象もありますが
それにしても今回の公演を観ている間の一番の感想と言えば
「わああああ、アートだ・・。」
というものだったのでした。

もともと少林寺拳法などが大好き(知識はないけど)だったため一もニもなく席を取った公演でありましたが
その点では少し予想とは違った内容でした。
でももちろん予想が裏切られたことに何の文句もございません(笑)。

シンプルで美しい「四角形」が、想像を絶するテクニックと身体能力により次々と展開していきます。
「数」や「法則」の領域かと思われる、「理想」の世界。
あるいはデジタル。
あるいは宇宙。
そんなものたちが、人の身体と力、動きによって次々と紡がれる。
これはすごいことだ、と思いました。


いくら言葉を尽くしても、観ていただくより他に方法はないものですが
全く美しい公演でした。

そして思ったのは、美しさを表現するためにはやはり鍛えられた身体が有効(必要、とまでは言い切りません)だろうということ。
もともと東雲の立場はそこまで「身体」「肉体」を第一義に考えるものではなかったし
最近改めて自分の「武器」は言葉、だろうなあと思うのですが
(言葉に偏る傾向があるという弱点については大いに反省するとして)
それでも今回、「身体」というものと、もっとちゃんと向き合わなくては、向き合いたい、それが必要である、と思わせられたのでありました。

役者の身体(言葉、声も含めて)は、表現を「より」行い得るものとなることを目指す。

目指したい、と思ったのでありました。

楽しかった♪

さてたった今、
自分の武器は言葉(セリフ)である、
と書いたばかりですが
つい昨日、「ないセリフ」が一番重要である、という脚本を書きました。
当初の予定よりはやっぱりセリフが増えてしまいましたが
最も重視しているのは「セリフのない」シーンであり、そのシーンのためにこの一本を書いた、というものであります。

しかしセリフを書かずあまつさえ演出としては役者さんに賭ける、ただ賭ける
逆に言うと作家としても演出家としても、自分は何もせずに役者さんに全部やらせようとするという
よく考えたらかなり非道な脚本だと非難されるかもしれません。

が、そんな非道な作品を、ぜひ上演したい、すぐしたい、と珍しくそんな気持ちになっています。




posted by ゆう at 18:27| Comment(0) | 観劇